For every lost night

備忘録。宛先のない情報をインターネットに溶かす場所。

真夜中のコンビニにて

たのしげな笑い声が聞こえる。

 時刻はAM1時。

 

 (弁当の棚出しをしながら)

中国系留学生の店員「だってね、もう戦争デスヨ。だって、シリアに爆撃してンの、アメリカが。ワッハッハ……そんでね、第三次!…第三次世界大戦!!」

もう一人の店員「そりゃねえ、もう今インドもさ!……………なははは」

 

中国系留学生の店員「(人類が)絶滅するのかなぁ?」

 もう一人の店員「…ゴキブリも?」

 

 二人「ヤッハッハッハッハ!」

 

 本来欲しかったものが無かった代わりに、つまらない物を何点か持ってレジに向かった私は、二人の会話を中断させてしまった。

中国系の店員がややぎこちなく対応してくれた。

 

 もう少し彼らのおしゃべりを聞いていたかったなぁ。これだから夜更かしはやめられない。

 

 

Kate Bush『Running Up That Hill』と未来へのノスタルジア

www.youtube.com

 

Kate Bush『Running Up That Hill』のMVを見ていると、そのシュールな世界観にふと未来世紀ブラジルという映画を思い出した。

 

https://www.amazon.co.jp/未来世紀ブラジル-スペシャルエディション-DVD-ジョナサン・プライス/dp/B00005R22R

 

袴や鎧など所々に日本的モチーフが登場したり、どこか近未来を思わせる不思議な空間、謎のお面など、じっくり観てみるとなかなか共通点が多いこの2作。

 

で、調べてみると、実は両方とも1985年に制作されていた!!!これは運命の年だわ。そしてともにイギリスで作られたもの。

それにしても、この奇妙で独特な世界観はどこから来るのだろう……。

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

あえて表現するならば、『未来世紀ブラジル』にも『Running Up That Hill』にも「(そこにあったかも知れない)未来へのノスタルジア感じられる


1985年当時の人々が思い描いた「未来」像が、「ありえたかも知れない現実」として、現代に生きる私たちの胸を締め付ける。過去にも未来にも決して存在しえない空想上の一点。ディストピアでありながらもどこか懐かしさのある世界観は、今なお私達を魅了して止まない。むしろ、85年にリアルタイムでこれらを見ていた人達より、こうした未来が「存在しなかった」と知っている現代のファンの方が、かえって苦しいまでに惹きつけられるのではないか。

こうした懐かしい未来像”はいつだってここではないどこかを求め続ける人間にとって、究極の憧れなのかも知れない。

 

いや〜それにしても年々ディストピア萌えが加速していく…!

日本エレキテル連合のファン4年目にして感じること

 

f:id:promenadeofcat:20170328012259j:image

2017年2月27日に行われたライブイベント   【サンニスキーの宴】の様子

【サンニスキーの宴】当日の様子を少しだけ - YouTube

 

  

   ご存知のとおり、日本エレキテル連合の名を世間が知ることになったのは、2014年に流行語大賞を取るほどにヒットしたコント『未亡人朱美ちゃん3号』というネタに端を発する。 

 

   この奇怪なコントの特徴は、

  • 細貝さんはひとりぼっちで住む老人
  • そして性欲全開(老人なのに…)
  • 朱美ちゃんは安っぽいセクサロイド
  • 未亡人“設定”(不幸な女性にしか興味がない、という細貝さんの特殊性癖ゆえ。それが量産されている性の世界も空恐ろしいが、3号ともなると中々の企業努力が窺える)。
  • 絵面が凄まじい上に、妙なリアリティがある。(メイクのこだわりが半端じゃない)

    …と、凡そこの通り。受け手はこうした極限まで不気味な世界観に恐いもの観たさで浸っているうち、より細部に込められた人間の悲哀掴みきれない深淵を垣間見ることになる。

 

 

   YouTubeチャンネル【感電パラレル】で2500本もの動画を配信している彼女らのネタには、朱美ちゃんと細貝さん以外にも驚くべきほど多くのキャラクターが存在する。

    しかし、どのコントにも基本的にいわゆる“正しい人”は出てこない。社会で一見真面目に生活している人も、どこか滑稽でしょうもない側面を持って登場する。例えば政治家は妻の尻に敷かれ愛人に入れ込むわ、女優は整形しまくりで愉快な顔になるわ、教祖は男色に走るわ……

最近のテレビでは決して見られないようなブラックジョークの祭典だ。

 

 

     エレキテルのコントを「気味悪い」だとか、「面白くない」、「意味が分らない。これはお笑いなのか」と言う人達がいる。

  実際その通りだと思う。人間の滑稽さを誇張して描き出したら、不気味でないはずがない。しかし、その不気味さこそが、とてつもなく面白い。それはfunny”よりも“interesting”の世界だ。基本的に“funny”でその場の人々を愉快にさせるのが普通の芸人だとすると、エレキテルは全く別の領域から笑いにアプローチしている。

 

   彼女たちのコントはその場で笑いが取れるとは限らない。むしろファンが集まるライブ会場でも、大笑いよりクスクス笑いの方が多い。けれども、もっと奥深い心底の笑いが、コントを観終わった後も痛快さを伴ってフツフツとこみ上げてくる。私が初めてエレキテルのネタを観たときに感じた、恐怖とはまた別の武者震いのような感覚はこれに由来する。

 

--------------------ーーーーーーーーーーーーーーー
余談だが、そうしたエレキテルの世界観に浸っているうち、不思議と私の現実の人間観も変化してきた。他人の言動や振る舞いの中で、以前の私なら「みっともない」と言って目を背けていたものが、奇妙な愛着と共に心に沁みいってくるのだ。«不完全な人間»を理想化することなく、ありのままで愛せるようになっていったのだった。
--------------------ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 勿論、どうエレキテルの世界を楽しむかは人それぞれだし、正しい答えははじめから無い。それでも、エレキテルの2人が表現する“理解できる/できない”を超越した魅力を放つ世界を、もっと多くの人に味わって欲しい。たまたま一つのネタがヒットして流行語大賞を取ったとはいえ、彼女達のコントは元から少しも時代に媚びていない。だからこそ、時代を越えられる魅力があると信じている。